八幡平について

昭和11年十和田湖が国立公園に指定されたのに続き八幡平の国立公園化促進の声が高まり昭和31年7月、十和田国立公園の拡張区域として国立公園に指定され現在にいたる。
八幡平の名前はその大半を伝説に由来するが【「国立公園候補地八幡平の概要」1950】 より紹介しよう。
八幡平の名稱起源に関する伝説は岩手山、焼山火山、茶臼岳等に関連するもので、そのいずれもが坂上田村麿の東夷討伐に由来している。下記の伝説は「由来名區地名地稱」なる古文書によるものである。
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延暦年間(西暦782〜805年)東奥の地には豪族の専横夥しく中央(京都)の威令が行はれず民生の安定は言うに及ばず所謂未開の地であった。
中にも大武丸なる豪族は特に強力で高丸悪路なる配下を始め多数の部下を擁し朝命に服せず霧山岳(岩手山)に根據して
近隣一帯に亘り暴略の限りを尽くし民心をして極度の不安に陷らしめていた。
霧山岳(岩手山)は当時火山活動期にありその噴煙のため山相を表すことは極めて希であったため当時は霧山岳と呼称されていたと言う。
面して東奥の地は冬季寒冷で普通の場所では凌ぎ難かったので温泉湧き、地熱高い今の岩手山(大地獄付近のことであろう)に居を構えたと言われる。
かくして人心の不安は日に増し高まり、このことが京都にまで聞こえ、ここに坂上田村麿の大武丸討伐の議が起こるに至った。
即ち、延暦16年勅命を捧じた田村麿は長驅北上し奥州森ヶ岡(現在の盛岡)付近(現在の本宮付近)に布陣し、先ず以て奥羽54郡に亘り100社の神社を勸請した。(本宮の名稱はかくして起こったという)
森ヶ岡付近一帯の賊の討伐は比較的容易に討伐できたが本拠地岩手山に屯する賊は数に於いて圧倒的優勢で容易には攻略し得るべくもなかった。 そこで田村麿は霞ヶ源太忠義、同じく忠春の2名に若干の兵を付けて物見を命じた。忠義一行は岩手山を裏から偵察すべく密かに魔地川(マチカワ)【現在の松川】深く入りここから西北方に登り一高峰に達し賊の本拠を偵察したところ討伐困難なる事が分かり、早速これを本陣に報告した。
即ちこの偵察に登った一高峰は以来「源太岳」と称するようになった。実際にも源太岳からは西岩手火山大地獄方面がよく見える。
又今の松川、及びその上流赤川を魔地川と称したのはこの辺り一帯には賊徒の出没著しかったので地方民からは、魔地(マチ)と呼ばれ、そこから来る川を魔地川と呼んで恐れていた、又、これより下流の所を魔地尾と称し若干の土民が生活していた。今の松尾なる呼称はマチオに由来すると言う。
さて、忠義一行の報告を受けた田村麿は岩手山攻略の作戦を変更し今の県道盛岡秋田線(現在の国道46号線)に沿って兵を進め、一部は今の鬼越坂方面に道を取り雫石方面に兵を進めた。
今の大釜なる名稱はその時の兵駐屯地として大釜を据えて兵糧を炊いた故に起こった地名とも言われる。又、鬼越坂方面に進んだ兵はある峠にさしかかった際、賊徒は一夜にして逃亡したので鬼越峠と命名したと言う。
ここに於いて田村麿は兵を三分し、一隊は現在の雫石口登山路を御神坂澤に沿って頂上に向かはしめ本体は網張り口よりほかの一隊は御明神村橋場方面に夫々向かはしめた。

 ☆ 中 略 ☆
注:上の表現では網張り口より登った本隊は大地獄付近まで登り、頂上に達した一隊と呼応して火攻めの作戦に出たものと解される。

かくして岩手山に本拠を構える大武丸を一掃したので田村麿は手勢をまとめて本陣に凱旋し、休養をとると、共に次の作戦に備えるのであった。
大武丸配下の賊主高丸悪路一族はたまたま南方達谷窟(現在の西磐井郡厳美村)に蟠居していたので、田村麿は全軍まとめてこれを討つべく南下した。かくして森ヶ岡付近には討伐軍が不在となったので、岩手山にあった殘賊は再び勢いを得て、今の松尾、西根町田頭付近に横暴を極めるようになった。
現在の松尾村に寄木なる部落があり、大字名をなしているが、この寄木(ヨリキ)きは、賊の集結に由来したもので「寄鬼」から転化したものといわれている。又、同村の鬼清水(オニシヂと村民は発音すると言う)は鬼死地の転化なりと、言う。
而してこの辺に再蜂起した者は達谷窟の首領高丸悪路の長子、登鬼盛(トキモリ)なる者でその凶悪振りに恐れた村民は、使いを南方達谷窟に送り再度の討伐を乞うた。
現在、松尾村地内花輪線「岩手松尾」(現・松尾八幡平)駅付近を「時盛」と称しているが、これは登鬼盛の生活の本拠であったことにその名稱が由来していると言う。
さて、達谷窟の高丸悪路をなんなく討った田村麿は破竹の勢いで再び北上して来た、かねて田村麿の知謀とその軍隊の勇猛を知る登鬼盛は山を攀ぢ、谷を越えて西北方鹿角郡方面に逃亡した。この方面には討伐軍は全く地理不明であったので、前記、霞ヶ源太兄弟を再び物見として先発せしめる事とした。
併し源太兄弟は行く程にクマザゝは深くなり前進をはばまれたので嘗て岩手山を偵察した事のある一高峰(源太ヶ岳)に登って見た処、北方に當って一つの高地が見え而も立木も少なくクマザゝも繁なく鹿角方面に行くには唯一のコースと見たので、源太兄弟は勇躍して峰伝いに進路を拓り開き、長い苦労の後、目指す高地に到着した。山相を見ると山は高原状をなし、丈の高い立木もなく、自然のマツ(オオシラビソ)は枝振り面白く、山草の花爛漫と咲き乱れ宛然神の国の如くで、中央には鏡のごとき大小の湖水二つあり、湖畔には水鳥、遊び、洵に幽寂の湖をなしていた。
この有様を見た源太兄弟はこれは必ず普通の山ではあるまいと尚も頂上一帯を探査したるに、北東の一角に突き出せる岩山があるので登ってみると北奥一帯を一眼に見渡すことの出来る場所で賊徒の隠城征伐上洵に有利な場所であることを確認し、物見の将兵共にその絶景に讃を久ふしたのであった。
(ここが現在の八幡平の源太森である)ここに於いて源太兄弟は、此の地は天下如何なる名園と雖も遠く及ばない神秘境なりとし早速湖畔に降りて将兵一同を清め、戦いの神なる應神八幡大神宮を勸請し、戦勝を祈願すると共に、本隊に連絡し全軍を迎え八旗を立てて八旗神社と稱へ、討伐軍遠征のために武運長久を祈願し兵力少な味方の士気を鼓舞するのであった。
時に桓武天皇の御代、延暦23年(西暦804年)10月の中旬あったと言う。
かくして討伐軍はこの高原各地の残賊徒の隠遁平定したが、西方焼山なる地に残賊尚も蟠居する山、物見の兵より通報があったので、高原本地から精兵を進め難なくこれを完全に一兵無きまでに平定した。
現在の焼山外輪山の鬼ヶ城はこの時の残賊の最後の據鮎なりと言う。かくして田村麿将軍は征夷大将軍を拝命し大凡8ヶ年に亘り北奥夷賊の征伐に専心し、その間4回も皇都往復し遺憾無き処置を取り、今は既に一賊も残さず平定して任務を完了したので、再び彼の名勝の地、高原に全軍を集め、先に祀った八旗神社に對し、その神徳を謝すると共に東征記念のため金牌を建立して凱旋の祭りを盛大に行われたと言う。この忘れ難き天下の勝地をさるに当たり田村麿は八幡平と命名して凱旋した。
その後、此の地を八幡平と称するようになった。

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